西陣紀行 -西陣の歴史- 西陣織の起源について
2022.09.01
(画像は帯みのりblogより)
みなさま、こんにちは。
9月1日、木曜日、「防災の日」です。
本日の京都は朝から大雨のお天気模様です☔️
災害はいつ起こるかわからないので、常に備える準備を
しておかなくてはなりませんね。
「備えあれば憂いなし」です✨✨✨
今日は西陣が最大の危機に陥った「応仁の乱」を含む
西陣織の起源についてお話ししたいと思います🌈
西陣織って、「西陣」だから、
応仁の乱の頃に西軍が西陣と名乗って、、、それが起源だと思いませんか?
ところがどっこい!!!
そんなどころじゃありません💦
まさかの古墳時代です😳😳😳🍖🦴
有名な日本の歴史で言うと、
大化の改新以前の古墳時代が起源です🥩🥩🥩
大陸からの渡来人、秦氏(はたし)の一族が
山城の国(京都・太秦)あたりに住居を構え、養蚕・絹織物の技術を伝えたといわれています。
そして794年、平安遷都が行われ、
朝廷の命により、高級織物の生産がはじまります。
朝廷は、織部司(おりべのつかさ)という織物業の役所をつくり、
絹織物の技術をうけつぐ工人(たくみ)によって、綾・錦など高級織物の生産をはじめました。
彼らは現在の京都市上京区に集まり、その地区は織部町(おりべちょう)と呼ばれましたが、
朝廷の力の衰えとともに、織物も一時衰退しかけます。
しかし、織物職人たちはそれぞれに織物業を営み、復活していきます✨✨✨
鎌倉時代に入ると、彼らの作る織物は当時職人たちが移り住んだ大舎人町の名から
「大舎人の綾」と呼ばれ、珍重されました。
しかし、1467から1478年、約11年間もの間、応仁の乱が起こります。
あの有名な「応仁の乱」です。
細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西陣の戦い「応仁の乱」により
京都の街は荒廃し、織物業も大きな打撃を受けます。
やがて応仁の乱が終結すると、大阪の堺に逃れていた織手たちは京都へもどり、
織物業を再開します。その土地が戦乱時に西軍の本陣であったことから
「西陣織」という名前が生まれました⚡️⚡️⚡️
西陣では、大舎人座(おおとねりざ)という組合が組織され、
室町時代の後期には、京都の絹織物を代表する存在となっていきます。
(画像は泰正織物ギャラリーにて2021年撮影)
1590年、豊臣秀吉が天下統一した安土桃山時代、
中国の明の技術が伝わり、高級な西陣織の基礎が築かれます。
中国の明から伝わった技術をとりいれることで、
先に染めた糸をつかって色柄や模様を織り出す紋織(もんおり)という、
新しい織物を発案。高級な西陣織の基礎が築かれました。
やがて徳川家康が戦国時代に終止符を打ち、江戸時代が始まります。
西陣はいよいよ黄金時代をむかえます。
幕府の保護のもと、高級織物の産地としてさらに発展をとげる西陣。
その繁栄ぶりは、生糸問屋、織物問屋が立ちならび、
一日千両をこえる糸取引が行われていたことから「千両ヶ辻」という地名が生まれたほどです。
今でも、この「千両ヶ辻」があった大宮一条上がった地域一帯は太い道が少し残され、
数は減ったものの織物問屋が軒を連ね、当時の賑わいを残すお祭りなども開かれています。
しかし良い時代は永遠には続きません。
江戸時代の後半になると、たび重なる飢饉、奢侈(しゃし)禁止令、
(贅沢を禁止し、倹約を推奨する)の影響などから、西陣織は苦難の時代をむかえます。
1867年、徳川慶喜が大政奉還をし、幕末の大戦争が終結し
明治時代を迎えます。
東京遷都の影響もあって、西陣織は危機的な状況へ。
そこで京都府の保護育成がはかられ、西陣物産会社を設立します。
西陣織の職工をフランス留学させて、
ジャガード織(紋紙を使う紋織装置)の技術をとりいれて近代化を進めました✨✨✨
(画像は帯みのりblogより)
大正時代、洋式技術が定着、デザインも洗練されて、
西陣は最新で最大の絹織物産地へ大発展します。
フランス・リヨンやイタリア・ミラノをもしのぐ、
世界的な高級絹織物産地として知られるようになりました💫💫💫
そして昭和から平成、令和の現代。
現在では、帯地やきものに限らず、ネクタイや和装小物、
壁掛けや内装の壁紙やファブリックなどインテリア関連へも
用途は広がり、
国内外からも注目される存在となりました。
新たな可能性を追求する、西陣織の挑戦は今も続きます🌈🌈🌈
#京都 #西陣 #帯みのり